「形」と「手間」の中でこそ向き合えること。

ボクは、ここ数年、毎朝の「お参り」を続けています。「お参り」を続けているとて、間違いなく自分にとっていい変化がたくさん生まれていることを実感しています。そして、ここ数年は、長男も一緒に「お参り」に一緒に来ていて、真摯に手をあわせる息子の姿を見ながら考えることがたくさんあります。ボクはもともと小学校の先生をしていたこともあって、教育や心理学の視点から見ても、

「『お参り』は、子どもたちにとって間違いなくいいもの!」

と断言できます。

このことを、友人などに伝えると、本当に多くの方が「1日に1回、手を合わせる時間を作っています。」ってことや「子どもと一緒に手を合わせるようになりました。」とお知らせをくれます。そして、手を合わせるようになった友人からは、「感謝する気持ちが湧いてきました。」とか「ご先祖さまとのつながりを再認識しました。」とか「心がスッキリするいい時間になっています。」などなど、素敵な感想が続々と届いています。


さらに、その時だけじゃなくて、ずっと続けている方だったり、ことあるごとに子どもを連れて「お参り」にいくようになった方だったり…が想像以上にたくさんいて、「『お参り』はいい!」って言ってくれることに驚いています。

「お墓参り」は、子どもたちに負担がかかる?
しかしながら、一方で「お墓参り」が負担だと感じている人も少なくないことは、よく報道されている事実です。よく聞くのが「子どもたちに負担をかけたくない…」という話。

「負担がかかる」から「片付けてしまう…」という話ですが、これは、ボクが「お参り」をするようになって感じていることや、子どもと一緒に「お参り」をするようになって感じていることとは正直言って全くの真逆の意見。ボク自身は、そこに「お墓さん」という「形」があるおかげで続けている「お参り」からたくさんのことを教えてもらえているし、子どもにとって「『お参り』はいい!」ってことは絶対に間違いない!…と確信しています。

ただ、確かに息子との「お参り」を続けていると、「お墓さん」に参るときのお線香やろうそくを準備したり、花を用意したり、何かと手間がかかります。草が生えていたり、時に鳥がたっぷりフンをしていたり、掃除をするのにも手間がかかります。さらに、毎日「お参り」をしていると「お参り」をするからこそお線香のヤニがついたり、お花の花びらが落ちたりして、汚れてしまってキレイにするのに手間がかかります。

この「お参り」をするからこそ「手間がかかる」…ということは、確かにそうだと思うし、やればやるほど「手間も増えていく…」とさえ思います。この「手間がかかる。」ということが「悪」…というイメージが広がっている気がしていますが、自分自身が「お参り」を続けてきて思うのは、これは本当に「悪」なのだろうか?という疑問です。

「ご先祖さま」とのつながりは「無形の家督」。
そんなことを考えていたら、柳田國男さんの「先祖の話」の中に、こんなことが書いてあるところを見つけました。

国の経済の組織が発達してくれば、家督はもちろん土地でなくともよい。しばしば滅失の危険にさらされる有形の財産よりも、むしろかほどまでに親密であった先祖と子孫の者との間の交感(感情の通じ合い)を、できるだけ具体的に知っている方が、どのくらい家の存続に役立つか知れない。それを「無形の家督」と呼ぶことは、今はまだ呑み込み(納得する)にくかろうと思うが、私がこれから談(かた)ってみようとしているのは、主としてその方面の隠れたる事実である。
柳田國男「先祖の話」・「10.家督の重要性」より引用


「家督」っていうのは財産のこと。つまり、いつなくなるかわからない「形のある」土地やお金などの形のある財産よりも、先祖と子孫が通じ合っていることについて、できるだけ知っていることが…「形のない財産」ってくらい大切だ…って話。この話を読んでから、子どもたちと一緒に「お参り」をして、「ご先祖さま」に手を合わせるという習慣を子どもたちに身につけさせてあげることは、柳田國男さんがおっしゃるように形のある財産以上の価値がある…ということだと、ボク自身も確信するようになりました。


この「ご先祖」さまとのつながりについて、ちょっと前の時代までは、家にあるお仏壇に「お参り」をしたり、近所にあったお墓さんに「お参り」をしたりすることが生活の近くにあって、ごくごく当たり前の風景だったはず…。おそらく、当たり前だっただけに「負担がかかる。」「めんどくさい。」というネガティブな部分がよく目についたはずで、そのことを感じることの方が多かったんじゃないか…と思います。ただ、その「お参り」という行為の中で、柳田國男さんがいう「無形の家督」のような言葉になっていないたくさんのポジティブな「良さ」を享受しいていたことも事実だったはず…です。

だけど、今の時代は、家族の形態が変わり、コミュニティの形態が変わり、ネガティブな「負担がかかる」ことや「めんどくさい」ことをする必要がなくなってきています。「お参り」をする必要もなくなってきて、だんだんと「ご先祖さま」とのつながりを感じることは少なくなってきている…というか、もう感じることもできなくなりつつある…って感じで、言葉になっていなかったけど享受していたたくさんのポジティブな部分も失ってしまっているのかもしれないな…と思います。

この時代だからこそ、あえて「形」と「手間」を…。
こんなことを言ってるボク自身も、実は核家族で育ちました。家に仏壇はなくて「お参り」する習慣はなかったし、お墓さんも近所にはなくて遠いところにあったので、なかなか「お参り」はできませんでした。そんなボクが、今になって「『お参り』はいい!」という確信を持つようになり、友人に伝えると友人も同じように良さを感じるようになった…ってことなんです。


これまでのしがらみがない核家族で育ったボクや友人たちは、そのネガティブな側面を知らないからこそ、純粋にその「良さ」の部分だけをポジティブに捉えているのかも知れないな…と感じています。そのポジティブな部分が柳田國男さんのいう「無形の家督」の一部分なのかも…と思っています。

では、なぜ小さい頃から習慣としての「お参り」が当たり前じゃなかったボクが「お参り」をスタートさせて続けてこられたか…というと、香川に越してきて石屋になったことで、近くにある妻の実家のお墓さんに「お参り」をするようになったから…です。そこに「お墓さん」という「形」があったからこそ…感じられるようになったことだと思っています。

もし、「お墓さん」という「形」がなかったら、ボクは「お参り」をしていないと思います。「お参り」をしていなかったら、こうして「ご先祖さま」のことを深く考えることもなかったはず…です。同じように息子も「お参り」をすることはなかっただろうし、当然、息子がその良さを感じることはなかったはず…で、子どもにとっての「お参り」の良さについて考えることもなかったと思います。

状況によっては「負担だ…」と感じるかも知れないお墓さんという場所が「形」としてあったからこそ、ボクと息子は「お参り」をスタートしたし、ずっと続けているからこそ感じられたことがたくさんあります。そして、状況によっては「めんどくさい」と感じるかも知れない、お花やお線香、ろうそくなどを準備したり、手順通りにお墓さんにお供えしたり…という「手間」のかかる「お参り」をスタートしたし、ずっと続けているからこそ、いろいろと考えたり、自分と向き合ったりすることができたんだと思います。


今は、家族の形態が変わり、コミュニティの在り方が変わっていっている時代。自分自身の体験から、もしかしたら「負担だからいらない。」「めんどくさい。」と感じてしまいがちな「形」と「手間」の中でこそ向き合えることがあるはず…ってことを心から感じています。この時代だからこそ、これからの子どもたちのために、今ある「形」と「手間」をあえて手放さずにそばに置いておく…ってことも大切なことなのかも知れないな…と思っています。

庵治石細目「松原等石材店」3代目 森重裕二

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